被災地での55の挑戦 ―企業による復興事業事例集―
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68 '3(チャレンジ'挑戦( 工房の再開場所は、浪江町役場機能の避難先であり、加えて避難に際し様々な配慮や支援を受けた経緯から二本松市とした。立地は工房へ来るお客のアクセスを考え、国道4号線に近い小沢工業団地とし、二本松市より敶地の提供を受けた。福島県ハイテクプラザの山崎智史氏(現在は(公財)福島県産業振興センター技術振興課長)の協力によりハイテクプラザ内の空室を1年間無償で借り、当組合の仮事務所を開設した。工房建物の建設は中小企業基盤整備機構の「仮設施設整備事業」を活用し、2011年12月に着工、翌2012年3月に竣工した。機材や備品は、経済産業省の「伝統的工芸品産業復興対策支援補助金」や「中小企業等グループ施設等復旧整備補助事業」を活用することで準備した。 窯元が共同で使う窯3基は5月に工房に搬入された。6月29日に窯開きとして工房のプレオープンイベントを開催することとし、来場者へのプレゼントとして地元名物の浪江やきそば専用皿700枚を製作した。イベントは平日にもかかわらず、浪江町からの避難住民など2500人が訪れた。半谷理事長は「多くの人たちが来てくれて涙が出そうになった。再開して本当によかった」と語る。工房の名前は、かつて浪江町で当組合が運営していた大堀相馬焼の展示会館「陶芸の杜おおぼり」の名前を残そうと、「陶芸の杜おおぼり 二本松工房」と名付けられた。こうして大堀相馬焼の製作拠点は復活した。 しかし、再開からしばらくして問題が生じた。大堀相馬焼の特徴である「青ひび」模様を出すために不可欠な青磁釉が不足してきたのだ。青磁釉は浪江町で採れる砥山石が原料である。再開当初に使用していた釉薬は浪江町から運んできたものだが、容器に蓋をして屋内に保管していたため放射能の影響は受けていなかった。ただ、新たに釉薬をつくるには砥山石を採取しなければならないが、屋外にあった砥山石は放射線に汚染されて最早採取困難であった。このため、半谷理事長は再び福島県ハイテクプラザの山崎氏を訪ねた。山崎氏は、かつて「陶芸の杜おおぼり」の外壁陶板の作成に協力した実績があった。山崎氏に相談すると、青磁釉の再生に快く協力してくれた。山崎氏は青磁釉のサンプルを分析し、半年以上の期間にわたって100回を超える代替材料の試験や調合の試行錯誤を重ねた。オリジナルの青磁釉には青さに深みがあり、再現された青磁釉は色がやや明るめという微妙な違いがあるものの、ほぼ完璧に釉薬は再現された。配合レシピを元に釉薬を製造するための資金については、山崎氏より東経連ビジネスセンターの「新事業開発・アライアンス助成」活用のアドバイスを受けた。山崎氏から東経連ビジネスセンターに繋いでもらい、100万円の資金を得て釉薬の原材料を購入した。 '4(エッセンス'大切なこと( 大堀相馬焼は原発事故により存続の危機に立たされた。しかし、避難先自治体の支援や経済産業省等の補助金を活用して製作拠点を再開するとともに、失われかけた釉薬も福島県ハイテクプラザなどの技術支援機関の親身な協力により再現し、危機的状況から脱した。それを可能にしたのは、資金や技術面での公的な支援はもとより、復活に向けた半谷理事長の思いと粘り強い対応力があったと言えよう。 ただ、本来の産地である浪江町大堀地区への帰還は依然として見通しが立っていない。また、製作工房の共同窯は全ての窯元が利用することを目的に設置しているが、自分の窯での自由な製作環境を求めて、組合を出て自立を考える窯元もあるという。半谷理事長は、「窯元が自立していくことは仕方がないと思う。ただ、どこに窯を構えるかが問題。伝統的工芸品の認定は産地'大堀地区(があってこそ。窯元が離散したら大堀相馬焼と呼べなくなる」との不安を感じるという。「希望としては、尐なくとも事務所は浪江町に戻したい。大堀地区には自分達の代は戻れないかもしれないが、後の世代がいつか戻れるよう望んでいる」と半谷理事長は言葉を続ける。 再開した新工房

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